備忘録
彼は遠くへ行ってしまう。
私はついていけない。一人で旅行にも行けない。
最悪なGWだと思った。
そして本当に最悪なGWとなった。
連休前にこれまで経験したことのない泥沼にはまり、
そのまま休みが始まった。
平和ボケしていたのかもしれない。
なかなか抜け出せなかった。
泥沼は今も足元にある。
引きずり込もうとする亡者もそこにいる。
何も変わっていない。
でも、また引きずり込まれても、今度は容易に這い上がれる気がする。
*
大きな試練だった。
でも試練は大きいほど、得るものも大きいという。
実際、私もこの試練で既に得たものがいくつかある。
たとえば、食事を摂れなかったことで、目標体重になった。
しかも、胃が小さくなって少食になったことで、腸の調子がすこぶる良い。
そして、世の中には色々な人がいて、必ずしも理屈が通用するとは限らないことを改めて知った。
人は正当性がなくても感情のままに相手を貶めようとすることがあり、
そういう相手と対峙しなければならないこともある。
そういう場合はこちらは努めて冷静に、
自分や相手を含めたその環境にとって最善の対処を考えなければならない。
自分の正当性を主張するだけでは何も解決しない。
そういうことを学んだ。
あと、もし歩けるのなら、ゆっくりでも歩き続けることは大事かもしれない。
ふとした時にいちいち立ち止まって、後ろを振り返るよりも、
ゆっくりでもずっと前へ歩き続ける方が健全な心を保てる気がした。
そのためには、常に自分の心に耳を澄まさなくてはならない。
何がしたい?何が嫌だ?疲れている?まだ頑張れる?何が欲しい?
そして自分が望むなら、いつでもどこへでも行ける状態であると良い。
自分が望まないなら、どこへも行かなくたっていい。
それからストレス解消のために大人買いした漫画が面白かった。
あと夕方から夜にかけて間接照明だけで生活すると、
絶望的な気持ちになることも分かった。蛍光灯さまさま。
そして自分にとって、自分が生きていく上で大事なものについて
改めて考えたり気づいたりするきっかけになった。
*
恐怖から望むことは、純粋な望みではない。
孤独が恐いから誰かにそばにいてほしいと望むことは、愛ではない。
執着や依存から誰かにそばにいてほしいと望むことも、愛ではない。
私は執着からも、依存からも、愛からも、彼にそばにいてほしいと望む。
要は兼ね合いの問題なのかもしれない。
強要、無理強いはしてはいけない、ということ。
そしてそこまで彼に執着や依存する理由は他でもない、
他に私が何も持たないからだろうと思う。
怖がって縮こまって生きて、世界に興味を持たないから。
どうしたら、もっと自由に生きられる?
どうしたら、恐れを捨てて生きられる?
彼の望みは心からのもので、いつも純粋だ。
きっと、自分の心に正直に生きてきたから、真っ直ぐ生きることに慣れているのだろう。
私もそうなりたい。そんな風に生きたい。