座禅草

平穏と思っていた日々に、思いもよらぬ出来事が起こった。
人の妬み、嫉み、憎しみをまともに受け止めた。
汚い言葉が耳に残り、聞きたくもない話が心にまとわりつく。
夜は眠れなくなり、食べ物は喉を通らなくなった。
眠れないことはよくあったが、食べれないことは珍しい。
何かを食べたい、という欲望がわかない。
食べないと眩暈がするから、おかゆ等を無心ですする。
けれどそれも二口、三口。
無理に食べると戻してしまう。
近頃、体重の増加が気になっていたし、ちょうどいいかもしれない。
それに、すぐ、食べれるようになるだろう。
嫌なことはケロっと忘れてしまうのが、自分の長所だ。
そんな風に楽観的に考えていた。
2日目の夜、起きた出来事について、恋人に打ち明けた。
彼の無垢さが、避難所のように感じられ、安らいだ。
もう大丈夫、と思えた。
3日目の朝、恋人は遠くへ旅に出た。
もう大丈夫、と笑えていたのが嘘のように、こころがぐらついた。
ここぞという時に、彼はいつもそばにいてくれない。
まるで試練を残して去っていくようだ。
自分でなんとかしなくてはいけない。
寝ないと思考はどんどん冷静さを失い、光から遠ざかる。
3日目の晩、薬を飲んで、ぐっすりと眠りについた。
4日目の朝、眠れたかいあって、いくらか気分はましになった。
しかし、まだ心がザワザワする。
睡眠不足は解消されても、根本の問題が消えてないから当然だ。
さすがに、お腹もすく。あの日から、ろくに食べていない。
深呼吸して、何を食べられそうか、考える。
消化の良さそうなもの。うどん、おかゆ・・
シンプルなもの。納豆ごはん、冷奴・・
好きなもの。餃子、フライドチキン・・
だめだ、何も食べられない。
眩暈がひどいけれど、家にいると、気持ちが塞ぐ。
だから、出かけることにした。

座禅草。
以前、SNSで見かけた、不思議な形の植物。
それを探しに行きたいと思っていた。
僧侶が座禅を組む様子に似ていることからこの名前がついたらしい。
太い花軸を、落ち着いた赤紫色の葉がかまくらのように包み込んでいる。
森の中、地面からひっそりと生えるその姿は、さぞ神秘的だろうと思われた。
なんとなく、水辺に生えているような気がして、
池のある方角へ進む。
草むらに目線をやりながら、歩いていく。
目的の植物を探しながらも、頭の中では思考が渦巻く。
「私は、何も悪いことはしていない」
「あの女は、卑劣だ。許せない」
「しかし本当に、私は何も悪くないのか?」
「・・・・・・・・・」
お腹が空く。眩暈がひどい。精神状態も最悪だ。
こんな時、母がいてくれたら、
きっと、少しでも食べなさいと、何か作ってくれただろう。
こんな時、帰る家があったら、
こんな暗い森の中で寂しくウロウロせずに済んだだろう。
こんな時、無条件に、味方になってくれる人が近くにいたら、
腕の中に飛び込んだかもしれない。あまりにも気持ちが弱っている・・。
じわりと涙が出る。
それでも歩を進める。
なぜ?
なぜ私はこんなに無防備なのだろう。
阿呆のように人を信じ、裏切られ、泥沼に引きずり込まれた。
なぜ、こんなに一人ぽっちなのか?
前から思っていた。
もし、この世に守護霊のような存在があるとしても、
自分は何者にも守られていない気がする・・・。
恋人に会いたい。苦しい。寂しい。
でも、彼は今、家族の元に帰っている。
彼には、両親と、姉たちと、甥っ子や姪っ子たちがいる。
なぜ?
あんなに自分勝手に生きているのに。
なぜ、彼の方がたくさんのものを持っている?
私は泥沼に引きずり込まれたのに、なぜ、彼は乾いた地面を平気そうに歩いている?
何か、違う。彼は、守られている。良い人生を行きている。
なぜ、同じ人間なのに、こうも違う?
そもそも今回のことだって、彼のせいで私はこんな目に遭っている。
なぜ、私だけがこんな・・
いや、本当に彼のせいだったか?
・・・
長い下り坂に差し掛かる。
この向こうに池は見えている。
行きは、いい。でも、帰りは?
この坂を登る体力が、残っているだろうか?
でも、今更引き返せない。坂を下る・・。
ゆっくり、ゆっくり、下る。
この先に、座禅草はない気がする。
それでも、行かなければいけない気がした。
生き物の気配のない、池だった。
変わった鳥の鳴き声がしたけれど、姿は見えない。水鳥もいない。
あたりをぐるりと見るけれど、やはり、座禅草は見当たらない。
また、元の道を戻る。
眩暈がひどくなる。
やっぱり、何か食べてくればよかった。
でも、何も食べれない。食べたくない。
酔っ払いのようによろめきながら、坂を登りきり、歩く。
数日食べないだけで、こんなに弱るものなのだろうか。
それとも、精神的な衰弱で体まで弱っているのだろうか。
この森で以前、フクロウを見たことがある。
池とは反対方向だった。
そちらの方を探したら、座禅草は見つかるかもしれない。
でも、もうそんな体力は残っていない。
歩く速度が遅くなっていく。
不安になる。
そもそも、この森を出て家に帰る体力が残っているのか?
もう、だめだ。
地面に膝と両手をつく。
お腹が空いて、苦しくて歩けない。
食べれるわけがないじゃないか。
汚い言葉、醜い感情、こびりついて離れない・・・
誰か、助けて。
ここに転がっていたら、誰か通りかかって、助けてくれるだろうか。
それとも、誰かに電話して、助けに来てもらう?誰に・・?
苦しい。苦しい。苦しい。

ふと気づくと、手元に木漏れ日が射している。
頭上の木や遠くから、鳥の声が聞こえる。
そして、近くの低木に、カサ、という音を立てて、
小鳥がとまった。
姿は見えない。
その小鳥が、大きな、よく通る声で、さえずる。
シジュウカラだ。
なんて澄んだ、美しい声だろう。
しばし、呆然とする。
小鳥はひとしきりさえずると、すぐに飛んで行った。
私はむくりと起き上がり、歩き出す。
座禅草を探さねば、と思った。
何か食べないと、探せない。
そう思うと、次第に食欲がわいてきた。
何か食べたい、とやっと思えた。

空腹を我慢して、車まで戻り、コンビニへいった。
さっきまで見るのも嫌だった、
サンドウィッチと野菜ジュースを買い、車で食べた。
美味しいと感じた。吐き気は起きなかった。
そしてまた森へ戻った。
結局、私は座禅草を見つけた。
思っていた通り、神秘的な植物だった。
さっきまでの苦行を思うと、少し泣きそうになった。
よかった。見つけられて。前へ進み続けることができて。
帰る場所も、甘やかしてくれる母もないけれど、
私は自分で美しいものを、救いを見出すことができた。
これからもきっとそうして、生きていかなければならない。