批判

ドンちゃんは次会うのはうちでもいいよ、と夫に提案してきたらしい。
クリスマスにもらったスイーツが食べきれずに家にあるし、
少し食べるのを手伝ってもらいたい、と。
すると、夫はじゃあ次の金曜日にドンちゃんの家でディナーパーティをしよう、
と提案したらしい。
我々も日本料理を作って持って行くから、と。
・・・・・・。
突っ込みたいところは二箇所。
まず、パーティという言葉。
ドンちゃんが提案したのは、いつもの何でもない集まりだ。
なんとなく話して、ちょっと食べ物つまんで、
ちょっとドイツ語や日本語を勉強する。
それを招かれた側が、勝手にパーティに変えるのはおかしくないか。
そして、我々も日本料理を持って行くというフレーズ・・・。
金曜日は平日である。
ドンちゃんも夫も働いているのだ。
百歩譲って、夫は自分が提案したのだから、夫が料理を作るのはいいとしよう。
でも"我々も"ってことは、ドンちゃんも何か食事を用意しておけってことでしょ。
もう、意味不明!
平日に、働いている人に、その人の家で持ち寄りパーティしようって。
物理的に不可能じゃ?
前日の夜とかに仕込んでおけってこと?
ドンちゃんからしたらかなりゲンナリな提案では?
しかも、夫だって作れるはずはないのだ。
むしろ、毎日疲れ切って帰ってきても食べて寝るだけなのに。
つまり私に作れってことでしょ?
でも、私の都合など聞くこともせず、勝手に提案した。
結局ドンちゃんは金曜日用事があって、
その話はうやむやになったらしい。
でも、もしそのまま通ってたら。
私は語学学校の後に三人分の日本料理を作って、
タッパーに詰めて、一時間くらいの道のりを
荷物ぶら下げて持って行く羽目になったのだ。
そこはドンちゃんに作らせるわけにいかないから、
三人のお腹が満たされるだけの量を作っただろう。
ていうか、それならドンちゃんちに行く意味がわからなくなる。
我が家でいいじゃない。
三人分の食事をタッパーに詰めて一人で運ぶ手間が省けるんだから。
そういうことすべてを、考えられないのか?
気遣いというものが得意でない私がここまで思うのに。。。
結局なくなったのだから、とやかく言うことではないんだけど。
夫にも何も言っていないし。
でもこの話があったと知った時、さーーーっと、
上記のような考えが頭を横切って行って、腹立たしかった。
私が、考えすぎなのだろうか。
頭が固すぎるのだろうか。
お金の問題に関しては、ちょうど帰国していろいろな友人に相談したし、
夫があまりにもズレていて、自分が正しいと自信を持ったけど、
これに関しては、前向きに捉えられない自分がおかしいのかもしれないとも思う。
もっと、素直に、柔軟に捉えるべきなのかもしれないと。
「わあ、ドンちゃんのお家でパーティなんて楽しそう。二人とも働いていて料理する暇なんかないだろうから、私が作って持って行くね。重くないかって?全然大丈夫、主婦なんだからこれくらいして当然よ」
とかなんとか言って。
そう、主婦。主婦だから、いけないのだ。
夫は、自分の母親に対してもそうだが、
主婦になら何をさせてもいいと思っている。
主婦なんだから、家事をして当然だ。
ペットの世話、通帳の記帳、食器洗い、食事の準備、風呂掃除、その他もろもろ。
確かにその通りだと思う。
でも、それをやってもらう側の人間が口に出してしまうと、
あまりにも傲慢に聞こえるのはなぜだろう。
家事をやるのは当然だけど、やってもらう方がそれを言ってしまうと、なんか違うのだ。
どうでもいいことではある。でも、なんか気になる。
そんな風に思っている人間のためにしてあげたいことなんて、一つもない。
それに、全ての家事を主婦がやるべきかといえば、そうでもなく、
グレーゾーンの部分もあるだろう。
分担はその家庭によって、異なるのだ。
主婦は100%やるつもりでいる。
夫は20%やるつもりでいる。
重なる部分はお互いに自分がやるよと言い合い、
その結果、主婦が100%やることになるなら、それは美しい。
場合によっては夫が少しやることになってもいいかもしれない。
綺麗事だろうか。
夫の言った一言一句、いちいち揚げ足をとって、
これがおかしい、あれがおかしいなんて言うからこじれるのだ。
なんて、批判的で好戦的な女だろう。
その証拠に、夫の家族は夫がどんなにおかしげなことを言っても、
絶対に否定するようなことを言わない。
夫も、家族に対してそういうことは絶対に言わない。
私は所詮、理不尽や不親切を知らずに生きてきた、箱入りなのだろう。
そのくせ、妙に冷たく批判的ときたもんだ。
世の中には、自分が一番かわいくって、
自分のためなら平気で周囲の人間をコマのように使い、
尻拭いをさせる人間がいるのだ。
しかも私が断じて許せないと感じるそれは、悪などでは決してない。
ただの自己中心的な性質なのだ。
これまで、こういう人間が身近にいたことがなかっただけ。
家族も、親しい友人も、彼氏も。
みんな、お互いに思いやりを持って、まずは譲り合う。
主張したとしても、他の人の意見も聞く。
日本の社会では、それが当たり前なのだと思っていた。
そうじゃない人がいるのは知っていたけど、
自分がそんな人間を好きになったとは、思わなかった。
結婚当初は、それを嘆き悲しんだものだ。
自分が夢見ていた、労わり合い二人の時間を楽しむ夫婦という夢が、
永遠に崩れ去ってしまったと。
今はもはやそんなことは悲しくもなんともない。
毎度の事ながら驚き、腹立たしく思うことはあるが。
この男のこういう自由な振る舞いは、
人から見てどう映るんだろう、と気にもなる。
ただ、夫を知る人にそんなことを言うわけにもいかない。
結婚したのは、25歳の時だったか。
私という人間は、思考停止のプロだった。
問題にぶつかると、思考停止するのだ。
それが、乗り越える方法だと思っていた。
本当に愚かな25歳だった。
直感で夫を選んで、何でも分かった気になって。
今は、それよりはマシになっているだろうか。
夫の批判など、なんてつまらないことに時間を潰しているのだろう。
相変わらず、暇人極まりない。